明治22年までは、今の各集落はそれぞれ1つの「村」となっていました。市制町村制の施行により、明治22年(1889年)4月1日、関川村の区域は、関、七ヶ谷、九ヶ谷、川北、女川の5村にまとめられました。
それから12年後の明治34年(1901年)11月1日、関、七ヶ谷、九ヶ谷の3か村が合併して「関谷村」に、川北、女川の2か村が合併して「女川村」が誕生しました。 |
明治の合併は小学校を運営するに必要な人口規模が目標でしたが、昭和28年10月1日に施行された町村合併推進法は中学校を運営するに必要な8千人以上の人口が目標でした。
関谷村と女川村は、県の指導のもとに協議を重ね、昭和29年(1954年)8月1日、「関川村」として発足しました。当時の人口は12,284人でした。
写真は、発足当時の村の三役、幹部と議会のみなさんです。中央のひげの人が初代村長 新野三助さんです。 |
写真は、昭和29年11月に完成した役場庁舎です。ブロック造りで、当時は注目された建築でした。
当時は上野新に女川支所を開設していましたが、昭和32年6月に廃止しました。 |
写真は、当時の下関の風景です。きれいな水を湛える堀と緑いっぱいの柳が昔をしのばせてくれます。現在の堀と柳通りは、昔の雰囲気を再現したものです。 |
写真は、昭和35年頃の上野新の地蔵様の松です。現在の郵便局付近です。 |
写真は、昭和38年の豪雪の下関の様子です。
昭和38年1月22日から25日にかけて、県下各地は記録的な豪雪となり、「38(サンパチ)豪雪」と呼ばれました。まだ除雪機械もない時代で、電線が足元にあるほどの大雪には、村民みんなが家や生活を守るために苦労しました。下関観測所の記録によれば、最高積雪は2m28cm、雪が消えたのは4月9日でした。
また、昭和30年代は農業の大きな発展の時代でした。村内の畑地や平坦な原野などが次々と開田され、村の水田面積は大きく増加し、米を格納する農協の倉庫の建設も進みました。
大島家畜市場はにぎわい、その後の県内有数の和牛肥育産地づくりに貢献しました。 |